なぜ「自炊してて偉い」に抵抗したいか

告白すると、自分でもよく言ってしまう。「へえ、自炊してるんだ。偉いっすね」

 一方で、他の人から言われると「いや、偉いとかじゃないです。趣味なんで」とあまのじゃくに反応してしまう。友達にこれを言い続けていたら、とうとう彼は「偉い」を発することについてイップスになってしまった。それはそれで申し訳ない気持ちになったことがある。

 なぜ自炊を偉いと感じることに抵抗があるのか? 『批判的日常美学について』で難波は、自炊のハードルを下げようとする具体的な料理家の名前を挙げながら、こう語る。

 彼らのアプローチは根本的に間違っている。自炊へのプレッシャーに対処するためのもっともよい提案、それは「自炊をしなくてもよい」という提案である。風味を味わうこともなく、セルフケアを実施することでもなく、一汁一菜でよいとすることでもない。自炊しないことである。(…)まずもって、自炊とはただの料理行為でしかない。やらなくても人生は十分豊かである。…

 また、数ある大事なことの中で、自炊だけが重要視される理由を、「結局、自炊はたまたま材料が手に入りやすく専門知識がそれほど必要ではなく、食という毎日のことで、経済的に家計に優しそうだから重要そうな顔をしているだけである。」と看破する。実際、私たちは生活の多くを、金銭のやりとりを通じて他の人に外注している。食事だってそうである。

 自炊だけでなく、掃除をしたり、洗濯をしたりといった家事全般、「偉い」と言われることが多いような気がする。なんなら「生きているだけで偉い」という価値観をベースに、「生きてるだけでも偉いのに、自炊までしてなんて偉いんだ」と一層大仰に褒め称えたりもする。これはいいことなのだろうか?

 誰も傷ついていないのだとしたら、よいことなのかもしれない。ただどうしても拭いきれない違和感があって、『批判的日常美学について』はその答えを、美と倫理の癒着であると教えてくれる。つまり、「ちゃんとした」生活をしていることが、道徳的にも良いことであると見なされてしまう傾向があるのだが、これはよく考えてみれば安易に接続してはならないものなのだ。

 その人が「ちゃんとして」いるかどうかは、社会的な条件に強く制約を受ける。経済的に、時間的に、精神的に余裕があることが、ちゃんとするための前提条件で、それはその人の「徳の高さ」とは本来関係がない。それにも拘わらず、自炊している人が「偉い」と言われてしまうのであれば、自炊していない人は「偉くない」ことになってしまうのはないか。あるいは、もし私が余裕を欠いて自炊できなくなってしまった時期には、偉くなくなってしまうのではないか。じわじわと人を追い詰めるような怖さがある。

 以上が、私の「自炊してて偉い」に対する違和感の正体だった。自炊は趣味なので、倫理的に良いと賞賛されるほどのものではないが、趣味として面白いのでほどほどにやっていきたい。あと、人から「自炊してて偉い」と言われたときに過剰反応するのはやめよう。だってその人は、相手が倫理的に優れているなどと思ってその言葉を口にしているわけではないので。